仁木町へ和人が入植する前はアイヌの人達が狩猟や漁労の生活を営んでいたことは、古い記録にもあるし古老などの言い伝えもある。
しかし、それ以前のことは地中から出てくる遺跡や遺物に頼るしかない。仁木町でこれまでに出土したものは、東町16丁目のモンガク遺跡や、同6丁目の金光遺跡などが早くから知られており、10数年前には尾根内の土木沢左岸の丘陵台地上に遺跡が発見され、赤井川村の曲川遺跡と共に1万年以上も昔に先住民族の生活があったことがわかった。モンガク遺跡や金光遺跡はおよそ3 - 4,000年程度前の縄文中期時代の遺跡と考えられている。
そして、これらの遺跡は皆一段と高い丘陵地や段丘、または扇状地などに分布していて、地形的に低い平野上には今まで先住民族の遺跡は見当たらなかった。ところが最近仁木町北町13丁目付近の畑の地下から、刀剣が掘り出されたり、同3丁目の住宅地の隅から偶然大きな深鉢形の土器が出土したので、この低平地にもアイヌ以前に生活したと思われる人間の気配が感じられるようになってきた。
土器が出たのは古いリンゴ園の跡地で、表土をはがすと地下40cmほどの個所に数十個に割れた土器の破片が、折り重なって埋蔵されていた。これを取り上げて貼り合わせてみると、完形に近い大・小2つの擦文土器に復元された。
擦文土器というのは、土器の製作時にその表面につけられた擦痕即ち刷毛目[はけめ]のある文様があるもので、縄をころがして縄目の文様をつけた縄文土器時代よりずっと後の時代のもので、今から1,000年から700年ぐらい以前までこの擦文土器が使用されていたと言われている。
さて、復元された2つの擦文土器は大きさこそ異なるが、全く同形で深鉢形(カメ形)を呈していて、特にその底は口縁部に比較すると著しく小さくなっている。これは煮炊きに使われたものとみえて、大きい方の土器の内面などに炭化物が付着しているが、そればかりでなくその形態から考えると、地面に土器を置いて周囲から焚火などで熱する時は、器の底から火がよく当たって熱効率を高めようとする工夫からであろう。
この擦文土器時代の人の生活は比較的海に近い川沿いの適地に、竪穴住居をつくり季節的に遡上するサケやマスなどに依存すると共に、狩猟もかねた生活を送っていたようである。特に気候や地味に恵まれていた仁木では、ヒエやソバなどの原始的な農耕の存在なども考えられる。
擦文土器時代は北海道最後の土器を使用した文化であり、アイヌ民族の祖先につながる文化の一つであるという。
擦文土器 仁木町北町3丁目58で出土(仁木町教育委員会保管) |
出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p26-27: 8仁木町から出た擦文土器 --- 初出: 仁木町広報1982(S57).2
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