仁木町の藍作

 藍[あい]は青色系の紺色や浅黄[あさぎ]色(水色)などを染め出す植物性の発酵染料であって、明治末期まで阿波の吉野川下流沿岸地帯すなわち北方と呼ばれる地方が全国的な主産地であった。仁木町の開拓は主としてこの藍作地帯から入植した者が多い。従って、当初から藍作を試みる予定であったとみえて、渡航の荷物の中には藍ガメや藍切り鉈などの用具を携えてきた人も少なくなかったという。

 仁木町で藍作が始められたのは明治13年(1880)で、種々の雑穀と共に広さ3町歩余(約3ha)の耕地に試験的に播種したところ、大丈夫収穫のあることを確かめた。

 次いで明治14年末には戸口も172戸610人に増加し、開墾地も87町歩(約87ha)におよび、一般雑穀と共に製藍業が有望なことが確認されたので年を追ってその耕作が広がった。

 さて、藍作は春種子を蒔いて夏の穫り入れまで重労働が重なるのであるが、特に収穫時は一気呵成[かせい]の仕事である。夕方刈り取った葉藍はその夜のうちに藍切り鉈で細く刻み、翌朝筵[むしろ]に広げて乾かし、頃合いをみて唐竿[からさお]で縦横に叩く、その間、竹箒で幾度も混ぜ返し藍摺器でもむ。大体乾燥した葉は箕に賭けて茎片を取り除き、日没近くには筵ダテ(俵)につめて出荷する。この一連の作業を藍粉成[あいこなし]といって寝るひまも食事の休みもないほど多忙であった。

 ♪藍の種蒔き生えたら間引き、植えりゃ水取り土用刈り 阿波の百姓おき上がり小法師、寝たと思たら早起きた 二度と来まいぞ藍こなしだけにゃ、芋と麦飯で目がくらむ せこい川島で辛抱するよりか楽な鴨島で遍路[へんろ](乞食)する・・・

 と日がな一ぱい土用の炎天下で、老若男女入り混じってのこの仕事の苦しみを、故郷の百姓歌をこもごも唄い合って瞬時苦しさをまぎらしたという。筵ダテにつめられた葉藍は、主に三井物産会社の倉庫(現在の北町10丁目野村園付近にあった)に集荷され、会社裏まで余市川をのぼってきた川崎船に積んで海路小樽港に送り、本州へ移出された。

 仁木町の藍作はこうして明治30年頃まで続けられたようであるが、ドイツ産の化学染料に押されてその後衰退していった。

 藍は麦類や豆類と共に平地一帯に耕作されていたが、種川や中ノ川沿いの肥沃な水がかりのよい低地に多かったという。

 藍の全盛期が終わって、これに代わったのがリンゴや稲作である。

藍切り鉈
出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p24-25: 7仁木町の藍作 --- 初出: 仁木町広報1981(S56).12

0 件のコメント :

コメントを投稿