前へ廻ってみると、それはちょうど扇子を逆さにかざしたような形に見える岩壁で、烏帽子を冠ったエビスの顔ともとれるので、エビス岩と呼ばれるようになったのであろうか。
近づいてよく見ると、硬い流紋岩質の岩面には大きな割れ目が縦にいく筋も走っていて、そこには驚くほどスベスベした岩肌が鏡のように光っている。
大正15年、当時奈良女子高等師範学校の帷子[かたびら]二郎教授は、赤井川カルデラの調査研究に現地を訪れ、その成果を発表したが、それによると赤井川カルデラは二重式であって、はじめに都付近から長沢、尾根内、銀山、大江を経て然別に至る余市川に沿った半円形の第一カルデラ(余市川カルデラともいう)が生成し、次いで赤井川カルデラ(赤井川盆地)が形成された。
いずれも火山体が陥没したもののようで、その断層活動のおりには、上下2つの岩盤がはげしく擦れ合って食い違い、その際岩面には磨かれた痕跡が往々残るものであるから、エビス岩に見られる鏡のような岩肌は、余市川カルデラが断層によって陥没した証拠の一つであるという。
エビス岩の東南に大黒山がそびえている。その山すそを西へむけて走る谷川が大黒沢。下流は大江一の号の平地を潤してハッタリ(平内)で余市川に注いでいる。
この辺一帯の山地は、ナラ、イタヤ、樺、トド松などの豊かな山林に恵まれていたので早くから材木の伐り出しが盛んな所であった。
明治初年、当時余市に在住していた造材業者の大黒某氏が大黒山一帯の責任者であった関係から、その姓をとって大黒山と呼ぶようになったという。
後に大黒沢ぞいに然別と赤井川を結ぶ区画峠越えの新道が開かれた。白井川の金山[かなやま]から然別鉱山の精練所へ馬で鉱石を運ぶのが主な目的だったという。
カマスに詰められた重い鉱石を荷鞍に背負ったドサンコ馬が、数頭か10数頭ずつ一団をつくって蛇のように曲がりくねった急坂をあえぎあえぎ峠を越え、一路大黒沢を大江一の号へ向けて降りてきた。
ここは開拓当初から粟屋貞一氏によって農作物の試験場や、大黒沢の水を引いて水車を設け、移住民の米麦の精白や製粉を行なったところで大江地区では最も地の利を得た場所でもあった。
然別鉱山が最盛期を迎えた明治30年頃になると、一の号にも茶店や雑貨店が何軒か並んだ。現在住の丸谷氏の先代もその中の一軒で、雑貨や食料品、煙草など取り扱い、通帳も出して手広くやったという。
近年、大黒沢の斜面に町営スキー場が完成し年ごとにスキー客が増えているようであって、この辺一帯が明るく開けていくようである。
エビス岩 |
出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p128-129: 53エビス岩と大黒沢 --- 初出: 仁木町広報1986(S61).5
0 件のコメント :
コメントを投稿