これは穀物や豆類などの量を計った木製角型の一斗枡(約18L)で、その底裏には中央に三井物産のマーク(井桁三:下図参照)、その両側に「明治弍拾壱年十月」「二番組」と筆書きされ、ますの側面には製造所や検査証を示す焼印が押されている。二番組とあるから、この類の一斗枡が幾組もそろってあったのであろう。
ところで三井物産株式会社が開拓間もない仁木村へ進出してきたその陰には深い理由があった。
明治15年1月15日、仁木竹吉氏は長いあいだ手塩にかけた仁木村開拓も軌道にのり、一応その目途がついたと判断し、後志国瀬棚原野において更に開発の事業を計るべく仁木村を離れていった。この年2月には、明治2年以来の北海道開拓使が廃止され、函館、札幌、根室の3県が置かれ、仁木村は札幌県管内に属することになった。
当時、仁木村の一番地付近(現在の北町10丁目、11丁目付近)から余市町寄りの原野20万坪及び余市川堤防地30万坪は、移住民の入植予備地としてかねてから勧業課より約束されてあったところであったが、この広大な両土地の既得権が取り消しされることになり、村中の大さわぎになった。
この事情は仁木竹吉翁の遺稿によって詳しく知ることができる。
これは開拓使が廃止され、3県1局への改革期に当たって、当時仁木村担当の旧勧業課事務専従員の某氏と札幌県令(県知事相当)が組んで入植予定地の願書取り下げを強要したので、これに反対した住民73名は警察に捕らえられ、札幌に拘引されてい1カ年の鉄窓につながれたのであった。
裁判の結果は重いのは10年、5年、それ以下と10名ほどの者が懲役を申し渡された。そして問題の土地は共謀した専従員某氏と県令の私有地となったのであった。
この事件は多くの働き手を失った仁木町の開墾地としては大きな負担となり、せっかく開拓の緒についたばかりのその腰を折られたことになった。また、それと並んで村民の中には往々陥り易い飲酒や賭事などの弊風に流される者も出るようになり、かれこれ4 - 5年間は開墾の仕事が遅々として振るわない状態に立ち至った。
明治19年、仁木竹吉氏が再び来村、これを知って心を砕きその解決策の一つとして、三井物産株式会社に交渉し、その結果、明治21年9月、三井物産株式会社委託販売所を設置することに決まり、仁木村全村を担保として金品を貸付することになった。日常必需品をはじめ肥料や種子および現金貸出もし、一切を秋の収穫物との生産で貸し売りした。
三井物産株式会社仁木出張所は、現在の仁木町北町10丁目、野村園地所付近の余市川畔にのぞみ、船つき場も設けられていて仁木村の移出入物資は主にここで積み降ろしされ、川崎船が帆をあげて余市川を上下して小樽の港へ直通した。
村田家に残っている一斗枡は、三井物産株式会社と村民との取引に長い間使われていたものであったが、故あって当時会社の隣地で入植開墾にあたった村田角平氏に引き取られて以来、今日まで伝えられていたものであるという。
この由緒ある一斗枡、今は仁木町山村開発センター内の郷土資料室で、齢100年の老体を静かに横たえているが、その前に佇んでいると心なしか何事かを語りかけてくるようである。
穀物用の角桝(一斗枡ともいう)、 明治20-30年にかけて三井物産仁木出張所で使用(村田勇氏提供) |
三井物産のマーク |
出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p126-127: 52三井物産会社の一斗枡 --- 初出: 仁木町広報1986(S61).4
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