昔はこのフレトイ川の中流から上流にかけての川沿いには農家が30戸近くも展けていて「フレトイの沢」部落を点在していた。
フレトイの沢が開かれはじめたのは明治25年(1896)ころからで、入植者は主に徳島県人による自由移民であり、さきに仁木竹吉引率による団体移民の縁故者や知人などが多かった。
開墾はフレトイ川の中流、現在の東町4丁目付近からはじめられ、川に沿って次第に拡がっていき、明治時代末にはフレトイ川の上流の官林(国有林)境にまで農耕地が及んでいった。耕作物は主に麦や豆類の他、稲キビ、粟、ソバなどであったがいずれも無肥料でよく穫れた。豆類をはじめ穀物類などは換金でき、一時期はその生活も概して安定したようであった。
しかし、新墾後10年ほどで地力の衰えがみえはじめたので、過燐酸石灰など施肥してその対策に当たったが、元来フレトイ地区の土質は酸性の強い粘質の赤土で排水が悪く表土は黒ボクと呼ばれる火山性の黒土がうすく乗っているだけ。その上、傾斜地が多いので土壌の流亡もはげしい地域である。
なにせ無肥料に近い原始的な収奪農法であったため生産物は年ごとに落ちこみ、大正10年前後にはフレトイ部落の大部分の農家は窮乏のどん底。次々に耕地を手放して他に離散しなければならないはめに陥った。
行きづまりの原因は土地の悪条件や幼稚な経営ばかりではなかった。
明治44年(1911)5月、山火事発生、折からの強風に頂白山は全山火につつまれ、その山麓にあたるフレトイ部落は飛火をかぶってほとんどの農家は全焼した。そのうえ当時換金作物の第一にあげられていた豆類の耕作に欠かせない手竹も同時に焼失してしまい、その年の大福豆やウズラ豆などはやむなく手竹なしで地に這わせたので収量は激減。ついで大正2年(1913)は冷害による大凶作で著しい食料難にあい、ソバやヒエとともに糠や笹の実を食べて飢えをしのいたのもこの時であるという。
大正3年から同7年にかけての第一次世界大戦による好況に豆類、ことに青エンドウや大福豆を耕作してやっと息をついたのもつかの間、戦後の大不況の打撃はひとたまりもなく、フレトイの部落を押しつぶしたと言えよう。
人手に渡っていった土地は再び農耕地に戻ることなく、ほとんどが落葉松などの植林地に変わって現在にいたった。
昭和41年(1966)から同42年にわたって、フレトイ地区に果樹園目的の農業構造改善事業として農地の造成、用水路や道路拡幅延長など農業経営の近代化がすすめられたが、経営が安定せずほんの一部を残して荒廃・・・。フレトイの沢の開発は再び眠り続けるのであろうか。
フレトイの沢、谷の両岸は段丘上の平地で、この付近から開墾がはじめられた |
出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p130-131: 54フレトイの沢 --- 初出: 仁木町広報1986(S61).6
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