ゆっくり歩いても4 - 5分間、その距離もたった500m。それでも「道々455号線(仁木停車場線)」と立派な道路標識が立っている。総幅員12m半、完全舗装された道路の両側には広い歩道も整えられていて、国道5号線に比べてもひけをとらないほど立派な路線である。この道路は鉄道が開通し、仁木停車場の設置にともなって誕生した。
明治35年(1902)12月、函館本線の前身であった北海道鉄道会社の路線が蘭島、余市、仁木、然別の間に開通した。なにしろ仁木停車場の用地が農耕地の真ん中に求められたので、当時いろいろないきさつがあったが、村長田中久蔵氏は村民大会を開いて仁木停車場設置問題で村民の協力を仰いだ。村民達もこぞって協力をおしまなかった。こうして野村為次郎氏をはじめ多くの有志の努力で現在の地に決定をみた。
ここはもともと種川の古川跡で雪解け時や長雨が続いた後は水が流れたり溜まったりする低湿地であったので、停車場敷地には多量の盛土をしてその上にプラットホームを設け、駅舎や倉庫などをのせた。今でもその付近だけは高く、周りは一段と低いのが目につく。鉄道官舎などはその低地に立てたので出水に備えて一部は高床式であった。
ところで停車場から国道5号線へ通ずる道路用地は、現在北町1丁目の林縫子氏の先々代に当たる井形清蔵氏が畑地の一部をさいて幅3間半、長さ300間に及び地所を提供した。これが「停車場通り」の前身であった。
明治37年(1904年)10月、北海道鉄道会社線の函館・小樽間が開通し、後に国有鉄道函館本線となった。
鉄道開通以前の仁木村の物資は一切が馬の背か馬車、馬橇[そり]で国道を余市をはじめ小樽方面へ往復した。それが鉄道開通にともなって仁木駅扱いへと急に流れが変わって雑穀類をはじめ、りんごや野菜類が続々と積み出されるようになり、日用雑貨や農産用物資などがどんどん移入されてきた。当然のことながら運送業者が動きだし、青果物取引業者が相次いで集まり、休みどころや茶店、宿屋や雑貨店などが停車場通りに並ぶようになった。
だが、停車場付近の道は悪かった。駅前の横通りなどは、うっかりすると馬の腹までつかる事もあった。畑のまん中に造ったはずの停車場通りですら、その中ほどに小川が横切っていたのを埋め立てたままだったので、大雨が降ると必ずと言ってよいほど水があふれた。
村当局へ修理の陳情が出され、村民の協力もあって、毎年余市川の砂利を運んで敷き固めていった。これは昭和のはじめ頃まで続いた。
仁木駅前通り |
出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p132-133: 55仁木停車場通り --- 初出: 仁木町広報1986(S61).7
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