「精出せば凍る間もなし水車」・・・回っている水車が凍らないように、怠らず精出して働く人は困窮に陥ることがない・・・と、小学校の修身の時間など先生の話の中によくでてきた水車のことは子供の頃からなじみ深いものがあったが、その水車が消えてからもう何十年たったであろうか。
仁木町は、その地形や水利にも恵まれているところが多いので水車は古くからあちこちに仕掛けられていた。
最も古いと言われているのは現大江1丁目スキー場付近の大黒沢の谷に設けられていた。大江1丁目在住の水野光雄氏によると、開拓委員長であった粟屋貞一氏が入植者のために穀物類の精白や製粉するのが主な目的だったという。
仁木地区では、安崎京一氏の祖父に当たる安崎主馬蔵氏が現北町10丁目野村園の南隣に古くから水車場を設け、一般村民の麦や米の他に余市や仁木にあった造り酒屋の酒米の精白を手がけていた。
ここは当時古川と呼ばれていた中ノ川の旧河口にあたり、国道筋や船便のある余市川畔に臨み、しかも三井物産会社仁木出張所に接していて地の利を得たところであった。
フレトイ川の下流にも大きな水車小屋が建った。明治21年(1888)7月、余市郡長森長保宛ての水車営業願書が残されているが、それによると安崎主馬蔵、戸島金蔵、戸島吉太郎らが仁木村88番地の戸島吉太郎氏地所に、フレトイ川の水を引き柾[まさ]ぶき15坪建ての水車小屋に、直径10尺(3m余)の木製水車を設け、石臼7個を備えつけた当時としては堂々たる構えのものであった。
大正時代に入ると水車は急にふえた。第一次世界大戦は我国の産業界に好況をもたらし、農村は豆類や澱粉景気でにわかに活気づいたが、仁木もその例外ではなかった。
その澱粉製造場の動力に水車が欠かせなかった。大江橋付近から大江神社、光明寺、大江小学校を経て仁木スキー場あたりにかけては、河岸段丘や扇状地が続いており、仁木地区では平内川、種川沢、墓地川、フレトイ川、中の川などそれぞれ扇状地が広がっていて水掛かりがよいばかりか落差もあるので、澱粉製造用などの水車は、多くはこれらの各所に仕掛けられ、最盛時には全村で20数カ所にも及んだという。
第一次世界大戦は大不況を置土産に終結し、水車は止まった。
動かなくなっていた水車が目をさましたのは大正末期、稲こきや籾[もみ]すり器械を廻す動力源に使われるようになってからだった。それまでの足踏みや手動式脱穀機に比べて格段の威力を発揮した。だがそれもつかの間、小型石油発動機の普及とともに水車は次第に影をひそめていった。
水車営業願書の設計図(トクシナイ小川とあるのは、フレトイ川の間違い) |
出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p134-135: 56水車のおぼえ書き --- 初出: 仁木町広報1986(S61).8
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