仁木平野と種川

 今から、7 - 8千年程前まで仁木の平野は海の底であった。余市の海がずっと湾入していて然別付近まで入江になっていた。

 その後、余市川は上流から絶えず土や砂を運びこみ、ついで余市の海岸にも沿岸流によって砂州が細長く東西にのび、入江の口を塞ぐようにせばめたので余市川の堆積作用は急にすすみ、今から2 - 3千年前には仁木平野の原形がほぼ出来あがったものと考えられる。

 余市川の堆積作用はつづく。特に春の融雪や夏から秋にかけての洪水による氾らんは、莫大な土砂を撒き散らしながら川筋は大きくうねり、河道は幾度も変遷した。

 現在の余市川は、平野の西側すなわち砥の川や旭台の山ぎわに押しやられたように流下しているが、仮りに大洪水が急に来襲したらJR然別鉄橋付近の凹地が危ない。水は種川筋の低地一帯をひと呑みにしてしまうであろう。

 一見、真っ平に思える仁木平野も少し注意してみると、国道沿いは高くその両側はわずかに低下し、平野を全面にわたって1m前後の起伏が波状にうねっていて、かつて余市川やその支流が思いきり乱流した跡があることを物語っている。

 試みに地形図(2万5千分の1 仁木図幅)をみるとよい。国道5号線沿いに図を南から北へ辿ると砥の川入口付近15m、仁玄寺付近12.5m、仁木郵便局付近10m、仁木小学校付近7.5m、北町の庚申堂付近は5mで、これらを示す等高線は低い方へ向けて舌状を呈している。

 それはかって余市川の主流が通り過ぎた跡であり、この南北にのびた緩やかな傾斜面は扇状地と呼ぶにふさわしい地形である。地表は排水のよい肥沃な砂壌土に覆われ、質のよい地下水も豊富で、昔も今も果樹類栽培の中心地であることは言うまでもない。


 頂白山の西麓平内の沢から流れ出た種川は、そこで余市川に落ちていたようであるが、その後、仁木平野の扇状面を西に東に大きくうなりながらそのほぼ中央を縫い、国道の種川橋をくぐって余市川の本流に注いでいる。

 その間、幾度となう河道を変えたもののごとく、平野面にはその古い流れの跡がところどころに溝を残していて、融雪期や大雨後には水溜りが残ったりしてそれと知られる。

 種川の屈曲は東町7丁目から北町5丁目および7丁目一帯にかけて特に著しいが、東町7丁目ではフレトイ川と中の川を種川に合流させ、三川を1本にして直線化を図り、その切り替えや改修工事はほとんんど完成した。

 金光橋付近から上流の種川は、流れはやせ細り河岸や河床に一部改修の手が加えられたところもあるが、その流路や地形の原形はほとんど昔のままであり「原始の種川」の姿を偲ぶことができる。

 当時の河床は扇状地の常として、小砂利の層が厚く敷き、その上を冷たくてきれいな余市川の伏流水などの湧き水が至るところから流れ込んでいて、川筋は鮭や鱒のホリ場(産卵穴)には好適なところでもあった。

 入植当時の人々は、この種川にあふれるように遡る鮭の姿をみて驚き、かつ狂喜したと言うが、「種川」の名にふさわしい川であった。

 明治12年の「仁木村開墾地割渡全図」によると、甲耕地101カ所、乙番地17カ所と区別され、そこへ(仁木竹吉遺稿集によると)117戸480人が入植したが、この地割図のほぼ中心を種川が貫流していることである。

後志国余市郡仁木村開墾地割渡全図
(種川は開墾地の中心を蛇行して流れている)

 それは種川系の川筋一帯の土地が肥沃で水利にも恵まれ、開拓地として最適な場所であるとして開拓使は当初から狙っていての事であろうか。

 明治13年、雪どけと共に開墾がはじめられた。開拓使勧業課の技師や技手15名、人夫120名、洋牛60頭それにプラオやハローなど、洋式農具を携えて来村し、移民の開墾を援助した。

 作物ははじめ藍作が奨励された。りんごは明治16,7年頃から国道沿いに拡がり、明治22,3年頃から大福豆の耕作が盛んになったが、藍作はインド藍の輸入でだんだん振るわなくなり、藍の適地であった水利のよい低地は次第に水田にとって替わり、フレトイ川や中の川の下流地域へと広がっていった。

 第一世界大戦は北海道に豆ブームを招いたが、ここでもその例外ではなかった。大福、中福、大豆、小豆、青エンドウ等など……。これらは小樽港からロンドンの市場へ。


 長い間の無肥料に近い耕作で地力は衰えをみせはじめたが、種川の両岸にうねる微高地である自然堤防上はなお健在、野菜類ことに長芋やゴボウなどの根菜類の好適地であった。

 欧州大戦後、野菜類は小樽や札幌の近郊都市をはじめ陸軍糧秣廠[りょうまつしょう]への納入、小樽港から樺太への移出も多かった。

 こうした種川筋の農作物の変遷は、仁木の農作物の変遷史でもあると言えよう。

藍草の花(筆者試作)

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p94-97: 39仁木平野と種川 --- 初出: 仁木町広報1984(S59).12, 1985(S60).1

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