吉田七五郎氏殉職のこと

 北海道郵政局の殉職者名簿に、

  殉職者 余市郵便局脚夫
  吉田七五郎
 記事
 明治十八年四月十五日 余市郵便局ヨリ山道郵便局ヘ郵便逓送ノ帰路 降雪ト出水ノタメ溺死 同年五月十六日 余市郡川村字古川川岸ニテ遺体発見 同年八月十日付デ駅逓局ヨリ実父吉田丑蔵ヘ埋葬料金十円下賜

と、ある。また、小樽警察署余市分署長より札幌県令調所[ずしょ]広丈宛、検死報呈書によれば、

「死状・青縞サキ織無尻袖ヲ上下二枚着シ紺木綿ノ三尺帯ビ、青縞サキ織ノ股引ヲ着シ紺足袋ニ草鞋ヲ穿チ、郵便行嚢[のう]二個ヲ背負ヒ其ノ上下ニ萌黄毛布ヲ纏ヒ小風呂敷ニ弁当包シテ腰ニ付シタリ、頭髪ノ髷、尚ホ依然異常ナシ………」

と、ある。

 殉職された吉田七五郎氏は、明治12年秋、徳島県より仁木村へ最初の団体入植者の一員であった吉田丑蔵[うしぞう]氏の次男で、当時、余市郡仁木村93番地(現在、仁木町東町5丁目)で父の丑蔵氏とともに農業に従っていたが、故あって余市郵便局の脚夫[きゃくふ]として郵便物の逓送に従事した。

 明治18年といえば、当時の仁木村には役場(仁木外二ヶ村戸長役場)はあったが、小学校も郵便局もまだなかった。従って郵便物の集配は余市沢町にあった余市郵便局で取り扱っていた。

 当時の余市郵便局配達明細帳に、市外の部として、

 後志国余市郡山道村へ凡そ5里(約20km)、難路。
 同 仁木村へ凡そ1里30丁 平地 渡船場あり。

と、あって当時、仁木村方面への郵便物は、余市沢町から現在の大川橋付近に設けてあった渡し船(料金1銭、往復1銭5厘)で川村(大川町)へ越え、黒川村を経て新道路(国道5号線)を通って仁木村へ配達された。しかし山道へは、下山道(豊岡町)から桐谷峠を越えて砥の川、然別、七曲りを経て上山道のルベシベ(大江3丁目)へ向けて、旧ヨイチ越え山道の難路を辿らねばならなかった。

 当時、余市を通る郵便線路は札幌ー小樽ー余市ー岩内ー寿都ー長万部ー森ー函館を結ぶ陸路であった。よって余市郵便局から岩内郵便局へ向かう郵便物は余市・岩内間のほぼ中間に当たる稲穂峠の山頂にあった郵便物交換所まで脚夫の背で運ばれた。岩内郵便局側からも同様にここまで届けられ、両局の脚夫によって、それぞれ運んできた郵便物を相手方に手渡し、無事交換を終えると直ちに郵便袋を背負って峠を下り、帰局への途を急いだ。

 夏はひ熊の出没におびえ、ヤブ蚊に苦しみ、冬はドカ雪や吹雪に路を失うこと再三。時には逓送不能に陥ることもあり、実に命がけの勤務であったが、それに報わるに当時「脚夫賃一里ニ付七銭五厘、但シ山道險道ノ義ハ時季ニヨリ三割ヨリ五割増」とあり、余市・ルベシベ間の脚夫の賃銭は多い時でも往復一円五、六十銭前後と考えられる。

 吉田七五郎氏の遭難されたのは、ルベシベの山道局から余市への帰路であった。当日は晩春とはいえ稲穂山道の残雪は深いぬかるみになり、おまけにボタ雪といわれる重い濡れ雪の降る悪天候をついての道すがら、不意に足をとられて転落、折からの雪解けで増水した余市川の濁流に呑みこまれ、あたら若い生命をその職に殉ぜられたのであった。北海道郵便局では毎年4月20日の逓信記念日には、殉職者慰霊碑の御前祭を行なっている。

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p230-231: 84吉田七五郎氏殉職のこと --- 初出: 仁木町広報1990(H2).9

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