「ニシンは松前の米なり、釈迦も食べ、地蔵も食[け]エー」と言ってニシンを仏前に供えた傑僧[けっそう]があったというが、「ニシンは魚に非らず松前の米なり」とて、魚へんに非らずとし、またニシンは早春に獲れるから春告魚と読ませたという。
この春ニシン、今は北海道の海岸から去って久しく、近ごろでは幻の魚と言われるようになってしまったが、わが仁木町とニシンとはその開拓時代、いやそれ以前の徳島県時代から関係が深かったのであった。
ニシンは古くから東北地方の北部から北海道の南部一帯にかけて獲れていた。
江戸時代には「江差の5月は江戸にもない」と呼ばれたほど、ニシン場景気の中心は道南にあったがその後、ニシンは次第に島小牧(島牧)、寿都、歌棄、磯谷、岩内、古宇(泊、神恵内)へと北上した。
安政2年(1855)、エゾ地は松前藩から幕府直轄地となった。幕府は北辺の警備とエゾ地開拓を主眼におき、アイヌの撫育[ぶいく]や和人(内地人)による奥地への進出奨励を図ったが、特に西エゾ地と言われた日本海沿岸の開発に勤めたが。従ってそれまで婦女子の足をとめていた神威岬の女人禁制を解除し、ついで岩内から陸路を余市へ越える稲穂峠の山道も開通させた。
安政3年、まず幕吏の梨本弥五郎は妻子を連れて神威岬を無事通過して宗谷へ赴任し箱館奉行の村垣淡路守や堀利煕[としひろ]をはじめ松浦武四郎等は、ヨイチ越え山道を見分しながら奥地へ向った。それ以来積丹から古平、余市、高島(小樽)、石狩の海岸へと土着する者が次第にふえ、中場所と呼ばれていたこの地方の漁場が大いに開けていった。
若くして世を去った余市アイヌの歌人違星北斗[いぼしほくと]は、「暦なくともニシン来るを春とした コタンの昔慕わしきかな」と詠んだが、ニシンは春告魚と言われるように、春の彼岸前後になると大いに獲れた。寿都でとれたと言えば2,3日目には必ず岩内で獲れ、美国や古平で獲れたと聞けばすぐ余市にもやってきた。余市は明治になってニシン場として栄えたが、その全盛は大正時代であったという。
茂入岬から浜中、山碓[うす](港町)にかけて構えの大きな家が並んでいた。毎年2月半ば頃ともなれば、南部や津軽など秋田方面からやん衆と呼ばれた季節労務者がやってきた。
ニシンの群れが近づくと、茂入、浜中から尻場に亘る一帯の沖合は俄然銀白色に変わり、何百何千と数知れないゴメ(鴎)が海を埋めて空に舞う、沖の漁船が大旗やムシロ旗をふり上げて合図すると「そらニシンが群来[くき]た」と、町はわき立った。
余市よいとこ一度はござれ
海に黄金の波が立つ。
踊る銀鱗かもめの歌に
お浜大漁の陽がのぼる。
そよ風にのった冲揚げ音頭が海辺にまで流れ、余市海岸は毎年のようにニシン大漁が続いた。
北海道のニシンは、古くからいろいろと加工されて本州各地へ移出されていたが、中でもニシン粕は当時の綿畑や藍作地帯の重要な肥料として、その需要が多かった。
江戸時代から日本一の生産を誇った徳島県吉野川流域の藍作地帯でも例外ではなく、農家はニシン粕の入手におおわらわであった。
ところで幕末から明治初年頃にかけて吉野川は毎年のように風水害の被害を受け、家屋や田畑を失った農家が続出し、その生活が危ぶまれていた。
最大の被害地であった善入寺島(川島町)出身の仁木竹吉は、これら農民の惨状を救うために新天地北海道への移民を決意、東奔西走すること4年、遂に余市川のほとりに沃野を発見した。
ここは風土に恵まれている上、ニシン漁場で世に聞こえた余市町に近接し、海陸の交通もまた便利であった。
明治12年11月12日、仁木竹吉引率の徳島県移民団(117戸360余名)を乗せた三菱会社の汽船住ノ江丸は無事小樽に入港、一行は同地で1泊、翌13日小樽から陸路を辿って夕方余市浜中町に安着した。
ここでは元運上屋林家をはじめ、主として浜中町在住の網元一同から特段の厚意ある計いを受け、長旅の装いを解いて一先ず安堵した。
翌日から仁木原野の入植地に入り、集合所兼事務所や移民合同の仮小屋づくりに取り掛かり、11月20日を期してここに引越し移住した。とはいえ出来上がった建物は木立を切り倒して柱にし、手近にある笹を刈って屋根をふくとともに、壁に笹を立てかけて囲い、土べたにも枯れたカヤや笹を敷き、その上に荒ムシロを延べて床とし、出入口にはムシロを下げただけの粗末極まるものであった。
この笹小屋で冬を迎えたが年寄りや幼児、それに病人など到底越冬には困難であった。
ここにおいてもまた網元など漁家の厚意を受けた移民も多く、中には一冬中漁家に移って世話を受けた人々も少なくなかったという。こうした奇縁などがもとで、その後においても漁家と開拓農民との親交の流れがのちのちまで続くこととなった。
春の空は変わりやすい。天気は西から東に向って下り坂に変り、空は鉛色でどんよりとたれさがる、北海道ではニシンぐもり、本州では花ぐもり、余市や仁木では「ニシン模様」と呼んでいる。
海面は黄緑色をおび、柔らかさを見せはじめ漁師らはこれを「海がふくらんできた」と表現した。そのころになると、産卵期のニシンが大群をなして海辺におしよせてくるという。
ニシン模様になると漁民の喜びと漁村あげて戦争のような大漁景があった。仁木村の人々も待ち構えたように男も女も浜中町や山碓町の漁場へ稼ぎに出る。「浜のアネコは白粉いらぬ、銀の鱗で肌光る」と、唄の文句さながら泥んこ、いやニシンまみれになって働いた。
仁木村の藍作は、明治30年前後を境に急に衰えたが、りんごや野菜類がそれに代わり、大正から昭和にかけて躍進した。それを支えた主要な肥料は、やはりニシンであったと言える。
ニシンの陸揚げ風景(大正時代) |
鰊漁風景(昭和初期) |
出典:図書「続・ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1997(H9).12, p60-63: 18ニシンと仁木村 --- 初出: 仁木町広報1993(H5).4,5
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