山川瀧五郎と杞柳

 杞柳と書いて「こりやなぎ」と読んだ、古くから水辺に栽植された柳の一種であるが、その新梢の長さ2m前後のものを刈り集めて表皮を除き、乾かして後麻糸などで編んで柳行李[やなぎごうり]などを作った。

 行李[こうり]はこり柳や竹などで作ったが、昔は旅行の際などの荷物入れで着替えの衣料や化粧道具・手拭い其他手廻り品などを納め振分け荷物にして自分で背負っていった。

 小型の柳行李は弁当入れにしたり、大型のものは嫁入り道具の一つとして衣料を入れて運んだ。越後の”毒消し売り”や越中の薬売りなどは、程よい大きさの行李を5段も7段も重ね大風呂敷に包んで背負い全国を股にかけて行商した。

 ところで柳行李は昔から但馬[たじま](兵庫県)や因幡[いなば](鳥取県)が主産地であったが、明治23年、兵庫県城崎[きのさき]郡の行李業者であった山川瀧五郎氏は北海道を視察した後、小樽港の有幌町支店を設け現地で柳行李製造の得策なるを思いつき余市川の中流馬群別(銀山)の官林110万坪の貸し下げを受けたのである。そして明治29年より郷里の兵庫県から苗木を移入し、明治41年まで続けた。

 明治32年4月、初めて職工15人を銀山に移住させ、旧女代神社下に工場を建てて柳行李の製造を着手し、逐次、開墾・拡張を計った。

 しかし、地理の不案内や最初土地の選定を誤り生産は思うにまかせず、遂に資金不足となり経営が困難となったが、郷里の資本家の援助を受けて僅かに窮状をまぬがれることができた。

 越えて明治38年3月、鉄道が開通し銀山駅が設置されてからは従来最も苦痛であった交通不便が解消され事業経営は次第に好転した。

 そこで山川氏は、かねてから懸案であった余市川堤防用地の使用権を得、銀山から大江・然別・仁木・余市(黒川)にかけての川岸全域にこり柳を植えつけ着々と事業の発展を図り、遂に、山川行李合資会社の柳行李は北海道地方の特産の一つに数えられるようになった。

 林駒太郎著『大江地史』に依ると「明治44年現在、使用職工数、男子20人、女子18人。工賃、男子90銭、女子60銭。柳行李は全道各地に販売しつつあり」と。

 山川の柳行李製造は昭和の初期まで続いたと聞くが筆者の手元にその資料はない。

 余市町の川端義平氏は「大正時代、山川の工場は今の黒川郵便局近くにあった。平屋造りの建物で中には多くの男子工員が柳行李を編んでいた」と言い、もと然別の駅前に実家のあった堀尾(旧姓妹尾)キヨノさんは「娘時代にこり柳の皮はぎを手伝ったことがある、場所はハッタリの川ぶち、大江方面から馬車で集められた柳の枝を川水につけておき一本一本皮を除いた、それを天日で乾かして束ね馬車で余市へ運んだ。工場は今の黒川町拓銀の裏あたりで多くの職工達が働いていた。それは、昭和7,8年頃のことである」と語ってくれた。

 今、この柳は余市川の畔に僅かにその影をひそめているが銀山駅下のゆかりの丘には、山川瀧五郎の顕彰碑が一きわ高く目をひいている。

杞柳を使った製品

出典:図書「続・ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1997(H9).12, p22-23: 5山川瀧五郎と杞柳 --- 初出: 仁木町広報1991(H3).7

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