スモモは落葉の喬木で樹勢がすこぶる旺盛なばかりでなく病・虫害にも強い。
樹冠を覆うように咲く真白い花は芽香が高く、その果実は甘酸ぱい。それで「酢桃[すもも]」と呼ばれ、西洋スモモと言われているプラムとは別種であるという。
スモモは北海道でも古くから植えられた。今はほとんど野生化して”山スモモ”などと呼ばれたりしているが、仁木でも明治から大正時代には農家の庭先や畑の隅などに3本・5本と見かけるのが普通であり、役場や学校それに郵便局や停車場などにもきれいに刈り込まれたスモモの垣根が廻らされていた。
弘化3年(1846)、松浦武四郎は余市川を丸木舟で渡り、大浜中の路を忍路に向かう途中「フゴッペ岬の岩上にスモモの花がよく咲いていた」という意味をその著『三航蝦夷日誌』の中に書いているが、現在もそこにある古い神社の傍にスモモの老大木が残っていて毎年のように花をつけている。しかもその老樹の根元には更に、その親株が歴然と残存している。ひょっとしたらそれは今から145年程前、松浦武四郎が通りすがりに見たというスモモの中の一本ではなかろうか。
古平町の厳島神社境内や島牧村の宮内[ぐうない]温泉の庭に残るスモモの老木なども筆者の調べた限りではフゴッペ岬上のそれとほぼ同時大のものと考えられる。
時代はやや下るが寿都町島古丹にある最尊寺には、その境内を囲む土塁の上に10数本のスモモの老大木が枝をさし交していて花どきには馥郁[ふくいく]たる香りがそよ風にのって境内一ぱいに漂う。
住職の話によると「スモモは潮風にもよく耐えるので昔から寺社や学校ばかりでなく一般の民家にも広く植えられていて、その花や実を楽しんだ。この寺のスモモの樹齢も100年はとっくに越えている」と。
そういえば礒谷から歌棄・寿都、さらに黒松内・長万部から山越郡にかけての古い街道筋跡を辿ってみると、こうしたスモモの100年樹やそれに近い古木などが、あちこちに残存してるのが目につく。
かつて、稲穂峠ごえの山道ぞいに宿場や休み所が設けられていたが、国富の通行屋の前庭には「沢山のスモモの木が植え置かれてあった」と、明治3年ここを旅した米沢藩士山田民弥一行の『恵曽谷日誌』に書かれている。然別の七曲りには一里塚の標柱が立ち、休み小屋もあった。今でも地元では此処をスモモの沢と呼んでいるが近年までその古木が名残を留めていた。
最近十勝の更別村では、先ず1000本のスモモを丘の上に植え、花を楽しむと共にその実を加工して特産品にし、スモモの里づくりを始めた。
仁木町では数年前からプルーンの栽培をはじめたがその強健な苗木作りに野生化したスモモの台木が好適だという。
けだしスモモのもつ優れた特性に着眼したものと思われる、スモモ復活のきざしか。
スモモの古木 |
出典:図書「続・ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1997(H9).12, p24-25: 6スモモの古木を訪ねて --- 初出: 仁木町広報1991(H3).8
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