その台石には明治33年(1900)正月吉日、施主杉本政蔵、世話人武市悦造、片山和造、鳥海伊之吉、島田政吉とあってこれらの方々の協力によって建立されたものである。
石塔には硬い安山岩に切り石の正面に一面六臂[いちめんろっぴ](1つの顔と6本の手)の金剛菩薩がくっきりと浮かびあがっている。
ふくよかな面ざし、上体に六臂をつけ下半身をやや右へくねらせ岩盤の上に腹這いになった天邪鬼の背中をどっしりと踏んで立っている姿はその温容と威厳を兼ね備えているごとく見られる。
さらに天には、光明をあらわす太陽と月がかかり、第一の手は宝珠と、悪を破砕し庚申の威力を示す三鈷杵[さんこしょ]を持ち、第二の手には知恵の象徴とも、悪を突き破るとも言うべき宝剣を握りしめ、その左手はやさしく垂れて一般衆生への慈愛を示すごとく、第三の手は弓と矢を左右に携え、いつでも矢をつがえて、諸悪をくじく構えを示している。
足もとには四肢をくねらせた優雅な姿とも見るべき三猿が侍[はべ]っていて「憂きことは見ても聞いても悪しきこと、見ざる聞かざる言わざるぞよき」と、悪いことは見ない、言わない、聞かないという慎みの歌をあらわしている。
三猿の下に雌雄の鶏が向かい合って配されているが、鶏がときを告げる明くる朝まで眠ってはならぬという庚申の夜の戒めを示したものであろうか。そういえば四国の民謡に「今夜庚申、鳥つれておいで、鳥が歌とうたら寝て話そ」に通じよう。
これらは石塔の一面一ぱいに調和よく配されていて庚申信仰にまつわることがらを殆ど余すところなく彫り込まれているようである。
殊に鶏が加えられているのは珍しく、北海道に150ばかり庚申塔がある中でこれがあるのは仁玄寺境内の庚申塔ただ一つだけであるという。
とにかく、昔の人達は素朴な信仰にみちていて何の疑いもなく至心に祈り、一心に称名することによって、確かに神仏の加護や霊験があることを信じこんでいたのであろう。だからこそ、その昔、国道に沿う仁木の北と南の要地に庚申塔を建て、外から襲ってくる疫神や悪霊などを防ぎ、併せて田畑の豊作や家内の安全を祈念したのであろう。
心に念じると言うことは、一瞬のゆとりを生じることで心を落ちつけ、危機を乗り切る知恵が湧いてくると言うものであろう。
今なお信者が絶えないのもこんな故があってであろうか。
庚申塔(仁玄寺境内) |
出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p40-41: 14仁玄寺境内の庚申さん --- 初出: 仁木町広報1982(S57).9
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