稲穂峠の気象

 「坂は照る照る鈴鹿は曇る、あいの土山[つちやま]雨が降る」 ー 江戸時代、東海道は鈴鹿峠越えの馬子唄の一節である。

 伊勢と琵琶湖のほぼ中程を南北に連なる鈴鹿山脈を境に、その東の麓にある宿場町の坂下では好天でキラキラと日ざしがしているのに峠にさしかかる頃には雲行きが怪しくなり、西側の土山の宿では雨が煙っている・・・と言う。

 鈴鹿山脈をはさんでその東西の天気の微妙な動きを、馬子達の長い経験から得た渡世の知恵が唄になったのであろう。

 稲穂峠は仁木町の南西部を高くとり巻いている外輪山(稲穂連峰)の鞍部に当たるところで、その地形や気流の状態など自然のしくみが鈴鹿峠のそれによく似かよっている。

 ここは大昔から仁木側のルベシベと国富のシマツケナイの谷沿いを往来するアイヌ達の踏み分け道であったが、安政3年(1856)にはこの通路が余市や岩内の場所請負人の手でいわゆる「ヨイチ越え」の街道になった。従って余市・岩内間は1泊2日の行程になり稲穂峠下の通行屋では宿泊や人馬の継立[つぎたて]が行われるようになった。しかし旅行者は山中の道路が雷電越えと並ぶ難所に苦しまねばならなかったばかりでなく稲穂峠越えの定まらない天候が気がかりの種であったことと思われる。

 こころみに仁木町から稲穂峠のトンネルを車で通り抜けてみると、今まで晴天であったのに目の前に現れた国富の空には薄雲がたれ、岩内から雷電山にかけては雨脚が下っていたりすることが往々にある。

 思うに、西寄りの風に乗ってきた湿気は寿都沖で雨雲となって上陸しニセコや雷電の峰づたいに雨を降らせ、やがて稲穂の連山から風下の仁木へと及んでくる。

 「西が曇れば雨となる」の天気俚言も当てはまるし、「然別や砥の川の山に雨がかかれば必ず仁木(平野部)へ降ってくる」という古老の言い伝えも確かにうなずける。

 「仁木は照る照る稲穂は曇る、共和・岩内雨が降る」と鈴鹿峠の馬子唄をもじってみたが如何。

西よりの風にのった雲。

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p42-43: 15稲穂峠の気象 --- 初出: 仁木町広報1982(S57).10


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