ここは昔からの交通の要地であって、安政3年には早くも余市川左岸沿いにイナホ峠を越えて岩内へ通ずる街道が開けていた。
明治4年には、旧会津藩士ら団体移民が山田村に入植し、ついで明治12年秋には、対岸の仁木村へ徳島県から多くの移住民が入植開墾に従事したので、この辺一帯は人口が急増し、にわかに活気付いてきた。
当時、余市の中心地は沢町方面にあり、今の大川町あたりは川村と呼ばれる寒村であったので、余市と言えば沢町方面を指していた。
従って仁木村方面との往来は川村よりも山田村経由の方が道路もよく、距離的にも近かった。
しかし、余市川を渡らねばならぬという難点があったので早くから「渡船場を………」との住民らの声もあり、またそれを計画する向きも幾度かあったようであるが、ついに実現に至らず明治時代も半ばをすぎた。
明治35年、仁木村・大江村・山道村の3カ村が合併して大江村となり役場は仁木村に置かれたので、相互の交流も多くなり、特に下山道(豊丘)の住民は主に山田村を経て仁木村へ来往する者が多くなった。
時の大江村長、田中久蔵氏は木村喜平氏らの有力者と相はかって山田・仁木両村間の渡船場を設置する気運をつくり、その船主に戸島官市氏を後援した。
まだ年若だった官市氏は、気丈夫で知られた母親のキヨ氏から激励されながら渡し守りに従事、爾来25年余りも渡し舟の棹を握りつづけて村人からは「渡し場の官市さん」の愛称で親しまれた。
昭和3年、今野長三郎氏(北町10丁目、今野イチ氏の祖父)は、戸島官市氏より地所並びに渡船一式を譲りうけ、農業のかたわら渡船業に従い、昭和10年12月、現在の鮎見橋付近に吊橋が完成するまで渡船場を守りつづけ、余市川最後の渡し守に徹し、88歳の高齢で他界される少し前まで舟棹をはなさなかったという。
(付記)この稿は戸島芳雄氏ならびに今野イチ氏に教示をうけたところが多い。
上:渡し舟を操る在りし日の、今野長三郎翁 下:今野長三郎氏長男・勝次郎氏が設計 ならびに架橋した最初の吊橋(鮎見橋) |
出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p162-163: 65山田の渡し --- 初出: 仁木町広報1987(S62).10
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