中でも明治6年8月、地質調査主任のベンジャミン・ライマンを連れて札幌から陸路を乗馬で余市に向かい、稲穂峠の険道を越えて岩内、茅沼炭坑におもむき、次いで函館に向かったが、その調査日誌の中には未開当時の仁木町付近の様子が如実に述べられていておもしろい。
明治6年8月21日、・・・忍路という漁村を過ぎる。近くの余市川流域の農地や入植地を視察するため、余市に泊まった。
余市川は川と同じ名の町の辺で日本海に注ぐ。最初訪れた入植地はカイロヒラキ(黒川村開墾)と呼ばれ100世帯あって20棟の木造家屋に住んでいる。各棟には5家族住み、各家族は約3エーカー(1エーカーは約4,046㎡)の土地を耕している。
土地は豊かな沖積土で水害を受け易く、雑草と笹が密生し、この川沿いの低地の耕作には非常に経費がかかり、しかも困難である。
しかし、これを取り払ってしまえば作物は十分見込みがある。2年か3年よく耕すと、この厄介[やっかい]な物はほとんど無くなるので、十分手を尽くしたら立派な収穫を挙げることができる。この町の働き手は200人である。
次の村は、カワニシ(川の西すなわち山田村)で働き手は100人で、作物はほとんど日本種である。
開拓使庁はこれら開拓地にあまり目をかけず、種子や苗を供給していない。多分将来は事情が好転するであろう。
トウモロコシ、トマト、南瓜、瓜、えんどうなどいくらか植えているが、あまり近く植えすぎるので当然できるはずが良くできていない。
私は辺鄙[へんぴ]な入植地でいつもしたように、万事これについて指導したので視察は将来必ず実を結ぶはずである。ソバ、麻、ささげ、キュウリ、油をとる菜種[なたね]、唐辛子は、これらすべて開拓農地の主要作物である。
8月22日、今日はナッカワ(ヌッチ川)すなわち真ん中の川に沿って谷を上って行く。
川の両側の土地(現在の豊丘)は、前に見たどの土地にも劣らず豊かである。だがそれほど広くない。高地が川に迫っているが所々後退し、農地に向くだけの土地が残っている。
耕作を始めた所は、どこも万事成功で、肥えた土地が周囲の小山の山腹まで続いている。山には概して木が生えている。
ある所では、大きな山火事があったようで、貴重な木をたくさん傷め、また若木を焼いてしまった。
午前11時50分、ルベシベ(大江3丁目)の山小屋(通行屋)についた。
この川、余市川は今朝、我々の上った川で山から流れてくる、かなり水量の多い急流である。
川は既存の休憩地(ルベシベ通行屋)から約3000フィート下にあるが、その水音は、この静かな夕方遠くで聞くナイヤガラの滝を思い出させる。(通行屋で宿泊か)
谷はあちこちで2,3マイル広がり、土地は非常に肥えている。川岸を何マイルか行くと、時々突き出た山があって、そこを廻ると一方は何百フィートもある垂直の崖で、はるか下の方は轟々[ごうごう]と水が流れている。
休んでいる所からの眺めは非常に美しく、また実に雄大である。澄んだ川は山の中はるかに続き、美しい谷は両側ともうっ蒼と木が茂り、また遠くには緑の丸い山があちこちにそびえ、疲れた旅人にとっては、この上もなく魅惑的な光景である。
これなら(大きな町から適当な距離にあれば)まことに好ましい夏の行楽地になるだろう。
寒暖計は、真昼華氏81度になる。海岸は物凄く暑く陸風が吹いたにちがいない。休んだ山小屋(通行屋)は良くできた大きな日本式の建物で、全くどこもきちんとして真新しく、実に気持ちのよい休憩所である。
8月23日、今朝の馬の旅は、高い山(稲穂峠)の下の道で、ある山は海抜1,600フィートある。道は峡谷を縫うように登ったり下ったりして、いわばジグザグに進み、人も馬も大いに疲れる狭い小路にすぎず、足の短い日本の小さな馬(ドサンコ)がいつも通って深い穴ができ、穴と穴の間は足の短い日本の馬にちょうど合う間隔である。
私の馬はオーストラリア産で足が長く、平らな土地で乗る良種の立派な乗用馬だから、この深い穴に合わせて歩くことは全く不可能である。
今、穴に水が溜まり、土は粘土でこの上なく滑りやすい。とうとうこれ以上この馬に命を託すことが出来なくなった。
馬は幾度も足を踏み外し、のめったり滑ったりして実に危険である。
そこでこの馬をやめて馬丁に預け、小さな日本の馬に乗らざるを得ない。この方がこんな旅にはずっと慣れている。このひどい道を行くとすぐ、きれいに澄んだ小川に差しかかる。これは岩内川(堀株川)の源流(支流のシマツケナイ川)山間の谷間を曲がりくねった所を通ったり、幾度も川を横切って安全に進むのは、とても不可能だと思うことである。
長い間、昨日も今日も山火事の跡が目に入る。これらの山に生える貴重な木を、広い範囲にわたって焼き尽くしたに違いない。
山火事の被害を免れた所では、実に素晴らしい木がたくさん生えている。中には大きな蝦夷のモミ(トド松)の木があって、その価値は全く計り知れない程である。
・・・8月25日、ライマンと一緒に茅沼炭坑を視察・・・。
ホーレス・ケプロン |
出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p190-193: 72ケプロンの見た仁木町 --- 初出: 仁木町広報1989(H1).1,2
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