明治37年(1904)7月、現在の函館本線稲穂トンネルが貫通するまで短期間ではあったが「山道駅」が設けられていたのもここであり、馬群別、尾根内、長沢に延びた「開拓道路」もこの付近が起点であって当時としては交通の要所でもあった。
ルベシベとはアイヌ語のル(路)・ベシ(それに沿って下っている)・ぺ(者)で、山を越えて向う側の土地へ降りて行く路のある川(者)のことであるという。
北海道にはこの地名のついているところが驚くほどたくさんある。網走支庁管内の留辺蕊(ルベシベ)はよく知られている所であり、近くでは余市から古平へ越える古い道路にルベシベと呼ばれていた所が3カ所もあり、国道5号線が倶知安峠にさしかかる付近にもシイ・ルベシベ(本当のルベシベ)やイクシュンケ・ルベシベ(偽のルベシベ)などいろいろなルベシベがあった。
アイヌ時代の山越えの道は沢を登り、山の鞍部(峠)を越えて向こう側の沢へ降りるのであるが、目的の地に向かって一番近い道筋がえらばれていた。
仁木町側から共和町へ越える道路は稲穂川の沢合を登り山の鞍部になっている稲穂峠を越え、向う側のシマツケナイ川の渓流に沿って国富へ下っていく道筋が一番近道である。従って稲穂峠をはさんで両方の斜面を流れ下る川筋がルベシベ(道に沿って下っている川)なのである。普通は夏通ることが多いのでシャクルベシベ(夏に山越えする路についている沢)と呼んでいた。
松浦武四郎著『東西蝦夷山川地理取調図』には、仁木側は「シャクルベシベ」となっているが、国富側のシマツケナイ川の上流には「シャクルベシベ」と並んで「マタルベシベ」と記されている。マタルベシベは冬に山越えする路についている沢のことで、恐らく雪のある冬季の峠越えの近路で、そこは夏の通行が困難なところであったと考えられる。現在の国道トンネル入口に向かって右側に見える渓流がそれであろう。
江戸時代の終わり頃になると、それまで海上交通に頼っていた和人も陸路で要地の間を連絡する必要から従来のアイヌの通路に和人も通れるような道路をつくった。
安政3年(1856)、余市や岩内の場所請負人達が資金や労力を提供して岩内・余市間のいわゆる「ヨイチ越え山道」を切り開いたが、イナホ峠を越えたこの道はかってアイヌがつけた踏分道[ふみわけみち]とほとんど同じ川筋につけられた。そして現在の国道5号線も峠越えの代わりに長さ1,230メートル余りのトンネルで結んではいるが、その他は旧道の跡を拡幅したくらいであって今もなおアイヌの道「ルベシベ」は生きている。
ルベシベ、旧ヨイチ越え山道の跡が谷底に見えかくれしている |
出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p62-63: 24ルベシベ --- 初出: 仁木町広報1983(S58).8
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