ヤチは谷地または野地とも漢字を当てているが、もともとアイヌ語であるらしく、ヨシやスゲなどの生い茂った中に、ところどころ浅い沼などが残っている「沼沢地」のことである。
幕末の紀行家、松浦武四郎著『再航蝦夷日誌』に「・・・此沢凡そ一里に三里も有るべし土地到而肥沃にし而蘆荻一丈にも生え処々に沼有よし也・・・」とあって、高さ1丈(約3m)にも及ぶヨシやカヤの類が繁茂し処々に沼が点在していたという。当時の様相がうかがえる。
東町12丁目稲園(仁木谷地)の江本進氏の話では「戦後のこと、自家飲料水用のポンプ井戸を掘っていたら地面からおよそ20m下の細かい砂層の中から白い貝殻の破片がたくさん出てきた。しかもそれは海棲のもののようであった」という。その後黒川地区の農家からも二、三それと同様なことを聞いた。
ニッカウヰスキー工場で行ったボーリングでは、地下20mではアサリやカキの貝殻、同じ30m下層には二枚貝の破片が出てきたという。
谷地と呼ばれている地帯は、その地表は厚い泥炭層に覆われており、その下は泥土や青粘土などが重なり、更にその下は海棲の貝殻などを含んでいる砂層が堆積していて、大昔の海の跡を物語っている。
今から7 - 8千年前、仁木から余市にかけての平地は、余市湾が入り込んだ浅い海底であった。その後余市川の本流や支流から吐き出す土砂のため、当時入江の奥であった五剣山の下あたりから次第に堆積作用がすすみ、3 - 4千年位前になると陸地が現れ、ついであちこちに浅い沼などをもつ低湿地が拡がっていき、そこにはたちまちスゲやヨシなどの湿地性の植物が生い茂ったが、湿潤と寒冷な気候のため枯れた草はいつまでも腐りきれず次第に堆積していってついに泥炭化した。
こうして生成した泥炭地帯は、土地が平坦で大きな木もなく黒々とした土も深いので、開墾も比較的容易ですぐに耕地になりそうであるが、それは水位が高く鉱物質にも乏しいので排水した上で、他所から土を運んできて客土しなければならない。しかしこうして地温が上り植物が分解しはじめるとすばらしい沃土になる。
余市平野の泥炭地帯は、その開拓が古いのにかかわらず一般に生産が思うにまかせぬところであった。
しかし、第二次世界大戦中「食糧増産推進」の一環として、勤労動員者の応援を得て暗渠排水溝が整い、登やモンガクの丘陵から赤土を運んで客土を続けたことが泥炭の地力を発揮させたのであろう。今は見事に拡がる美田や果樹園にかわった。
谷地と呼ばれていた泥炭地 現在は排水溝や客土を施して水田やぶどう畑をのせている |
出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p68-69: 26余市平野の泥炭地隊 --- 初出: 仁木町広報1983(S58).11
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