仁木町の夜明け前

 今から100年前、徳島県、続いて山口県から移民が入植した時点を仁木町の夜明けと考えれば、それまでのこの地は原始に近い森林や草原におおわれ、川のほとりにはアイヌ民族のコタン(村)が点在していた。地名もヨイチ領で、現在の余市郡即ち余市町、仁木町および赤井川村を含んでおり、余市川の左岸を下ヨイチ、右岸を上ヨイチと称していた。

 従って仁木町や赤井川村は上ヨイチと呼ばれていた地域にはいる。

 さて、当時エゾ地の探検家であり、後に北海道の名付け親とも言うべき松浦武四郎は、嘉永2年(1849)松前からエゾの奥地へ赴く途中立ち寄り、余市川をアイヌの丸木舟で渡って忍路へ向かうおり、余市川流域に着目して

「・・・此沢目広くして奥にヨイチ岳という山有、高山にして四季とも雪有。扨[さて]此岳迄は夷人[いじん]共も一日に行難しと言えり、此沢凡そ一里に三里も有べし土地到而[いたって]肥沃にし而[て]蘆荻[ろてき]一丈にも生え処々に沼有るよし也・・・・・・・・・此処よりイワナイへの道遠けれど十五、六里に不過、左様有時は相開き置かば二日は越える道也其を棄置時は如何様の事有とも皆シャコタンよりオカムイ等の難所を越えねば行かれざることぞ、左様有るが故非常の注進たりとも風有ばオカムイを過ぎることなりがたき故に幾日も通せずして置こと如何にも残念と言うべし若しオタルナイ(小樽)より此辺に外寇にても有ば此処より松前に注進するに、やはり石狩川上を上り、ユウフツに出で東部山越内[やまこしない]に廻り松前に行くこと也幾日の日数かかるやしらん。此処(ヨイチ)よりイワナイに山越をよく開きシマコマキ(島牧)よりセタナイ山越をよく作り置ば僅の里程にて松前に達すべし。志士是等の事をよく聞き置なるべけんや。
 先のこの沢開き置かば三万石の高は、らくらく早々とらる様に覚ふその水筋よく見たる沢山只蘆荻を刈棄る斗[ばかり]のことにし而何ぞ他邦に而新開と言様な土地には非ず実にかくの如く棄置ことおしむにあまり有・・・・・・」

と。

 今から約130年ほど前、当時の見聞を記した松浦武四郎著『三航蝦夷日誌』の一節である。

 当時の北辺の国防や産業振興上からみてイナホ峠越え道路の開さくの急務を説き、余市川筋の広さ、水利、土質および気象等から開拓の容易さ、更に穀作物収量の予想まで述べられていて、その慧眼に驚くばかりである。因みにイナホ峠越えの道路が完成されたのは、これから10年後の安政3年(1856)であり、更に20余年を経過した明治12年(1879)11月、仁木竹吉氏が率いる仁木村入植者の第一陣が足をふみいれた。

 けだし仁木町の夜明けであった。

余市海岸より仁木平原をのぞむ。(幕末時代の絵図)

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p10-11: 1仁木町の夜明け前 --- 初出: 仁木町広報1981(S56).4

0 件のコメント :

コメントを投稿