晩霜

 梅や桜の花がちり、やがてスモモの花が咲きはじめ、木々の梢がうつくしく芽吹くころになると郭公[かっこう]がわたってくる。

 「郭公が鳴いたら豆を蒔け」とか、「スモモの花が咲いたらもう霜の心配がない、何を蒔いてもよい」と、昔の人々はこれを種子蒔き時の目安にしていた。

 仁木町でスモモの花が開き、郭公の声がはじめて聞かされるのは、毎年5月20日前後のことである。

 初夏のよく晴れた風の弱い夜には往々地面近くの熱が大空に向かって逃げて行く。即ち放射冷却がおこる。熱をさえぎる雲がないので気温はぐんぐん下がり地表面はついに霜が結ばれ、農作物などが凍冷害を受けることがしばしばある。これが晩霜[おそじも]である。

 昔は豆類などが度々晩霜にやられた。中でも大福豆や虎丸[とらまる]が霜に弱いようであった。銀山2丁目に在住の吉本喜三郎氏はその経験から「強い霜にあうと畑に蒔かれた豆がまだ土中にあっても、その発芽が遅れるばかりか、不揃いであったりボウズと呼ばれる萎縮した幼芽が出たりすることがある」という。

 近ごろはブドウの被害が相次いで起こっている。

 昨年は全道的にみると、大寒波で年が明け、5月から6月にかけて大霜害、7月から8月の猛暑、そして年末の大雪・・・。近ごろこうした天気の異変がしばしば起こるようになり、仁木町内でも5月下旬の晩霜に野菜や果樹類、特にブドウの新芽がひどくやられた。

 3年前の昭和58年初夏の霜害は更に大きかった。5月20日頃から最低気温が3℃ないし5℃前後の低温日が1週間ばかりも続き、中でも5月24日は大霜となり露地ブドウばかりでなく、ハウスものまでやられて被害甚大であった。

 ところがこうした霜による被害の程度は、場所的にかなり相異がみられた。ところによっては被害の少ない地域や無霜のところさえあった。

 例えば、仁木町東町地区のフレトイから得志内、中の沢をへて、モンガクに至る小高い台地や傾斜地、旭台地区を東南に面した傾斜地などは無霜地に近いところが多かった。その反面、砥の川地区のごとく山に囲まれた盆状地内や、南町の一部から東町をへて余市町黒川地区に向かって走る灌漑溝すじ一帯が最も被害が多く、種川沿いの地がこれにつぎ、余市川筋は比較的軽かったようである。

 砥の川地区のような盆状地や森林に囲まれた空地などは昔から霜穴と呼ばれ、灌漑溝や種川筋のように帯状に霜の害を受けるところを霜道とも呼んでいるが、いずれもその名のとおり霜の下りやすい場所を指している。

 現に仁木町では、過去12年間に数回の晩霜に見舞われていて、3,4年に1度の割で霜害を被っているが、こうした霜穴や霜道にあたる地域は今後もその危険性を多分にはらんだ要注意の場所であると言えよう。

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p124-125: 51晩霜 --- 初出: 仁木町広報1986(S61).3

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