モンガク地区は、余市平野の東部を占めるなだらかな丘陵地帯の一角にあって、地形はそのまま余市町登町に接し、道々余市・赤井川線沿いに冷水峠へ向かってゆるやかに上っている。
モンガク遺跡は、この丘の西端をしめる海抜20m前後の低い段丘上にあって、その前面は以前野地[やち](現在の稲園)と呼ばれていた低湿地帯へと続いている。
さて、遺跡の発掘がすすめられるにつれていろいろなものが次々に出土した。大まかに言えばここは古代人の住居の跡であった。まず建物の柱穴があらわれ、ついでその床面には石で組んだ炉跡や、その近くには赤ちゃけた土器の破片や黒曜石などのヤジリと共に石の錘[おもり]、それに炉跡の側らに筒型をした土器(北筒式土器という)が、ほぼ一体分横たわっていた。
また、この居住跡近くには鹿などを獲る落とし穴ではないかと考えられる深い土壙[どこう]や、食物を一時貯蔵したのではと思われる土穴も発見された。
ところで、モンガク遺跡から出てきた北筒式土器とは、縄文中期時代の終わりころ、すなわち今から3,000ないし4,000年くらい前のものとされているが、当時は余市海岸から仁木の平地にかけて浅い海が広がっていた時代であり、従ってモンガク遺跡のすぐ下まで波が打ちよせ、今の稲園地区一帯は海の底であった。
現に同地に在住する江本進氏宅の掘り抜き井戸の底には、目の荒い海の砂が堆積しており、その中には白い二枚貝の破片などがたくさん混じっていて、その昔、海の跡であったことが推定されている。
この海と山の幸に恵まれたモンガクの丘に遺跡を残した縄文時代の人たちは、弓矢や棍棒[こんぼう]をたずさえ、あるいは罠(土壙など)などを使って山野で鳥や獣を追った。浜辺におりては魚や貝などをあさるばかりか、石の錘をつけた漁網を仕掛けて漁労などにいそしんだに違いない。
3〜4,000年ほどの大昔、まだ海にふちどられていた仁木平野周辺の丘の上で生活を営んでいた先住民族。その生きざまの一端がうかがえると言えよう。
モンガク遺跡の発掘 |
出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p184-185: 70モンガクの先住民族遺跡 --- 初出: 仁木町広報1988(S63).9
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