ルベシベの通行屋

 昔、稲穂峠山麓のルベシベ(大江3丁目)に幕府直轄の通行屋があった。

 安政3年(1856)の秋、いわゆる余市越えの新道が開通したので、お神威岬の難所がさけられるようになった。そのため余市・岩内間の旅の行程が1泊2日に短縮され、通行人も急に増えたので安政4年の夏には構えの大きな宿泊所が新築された。

 これが当時、通行屋または通行番屋とも呼ばれて、番人(富右衛門)をおき通行人の休憩や宿泊、それに人馬の継立、通信文の逓送[ていそう]なども行われていた所であった。
ルベシベ通行屋絵図、目賀田帯刀筆(安政4年)

 去る4月28日、この稲穂峠越えの道やルベシベの通行屋跡に詳しい大江3丁目在住の寒河江四郎氏と佐藤重雄氏に道案内を乞い、それに町役場の内藤紀氏と筆者も加わり、古い文書や絵図面など照合しながら現地を踏んでみた。


一行4人は、まず国道5号線の稲穂トンネル北口付近から旧山道に入る。残雪の中に見えかくれするつずら折の坂を堅雪を踏みしめながらあえぎあえぎ登る。この道路がつい先年までバスが運行していたなど考え難いほどの危ない路である。いくどか休みながらも2時間ほどかかって稲穂峠の頂上にたどりついた。

 峠はまだ早春、あたりはトド松まじりの雑木林。白樺の梢に風が光っている。昔ここにお助け小屋や甘酒茶屋などがあり、後年余市・岩内間の郵便物の中継所がおかれ、双方から逓送人の背で運ばれた郵袋はここで交換された。

 安政4年の夏、松浦武四郎はここで「………昔より余市・岩内の境目なり、此処改めて標柱を立てるなり、その眺望寅卯(東)を一目に見て風景いわん方なし……」とエゾ日誌に書いたが、今も峠の上からの展望は絶景。

 さて、ここから東側の急斜面をほぼ一直線にルベシベの通行屋へ通じていたという古道を下る。

 この道は稲穂の谷とマクンベツ川の渓流にはさまれた馬の背のような尾根につけられているが、大昔はアイヌの踏分路であった。それを幕末当時、急遽この道に手を加えて新道に開いたらしい。とにかく急坂ではあるが距離は著しく近い。

 坂を降りきると稲穂川とルベシベ川をのせた田園が広がる。この川の合流するあたり、そこにルベシベ通行屋があったのだという。現在の幸坂傳藏氏の地所内にあたる。

ルベシベ通行屋跡(○印)
安政4年の初夏、稲穂峠を越えた松浦武四郎は「………当年初めて此処へ小屋を立てた理、まだ普請[ふしん]成就せざれども大勢の内匠(大工)にて当時最中取かかり居たり……」と、『エゾ日誌』に書いた。

 彼はルベシベの通行屋が新築工事中だったので1泊せずに余市運上屋へむかったのであろうか。

 安政4年旧5月11日、箱館奉行掘織部正[おりべのしょう]は小姓の玉虫義[たまむしぎ]や島団右ヱ門(義勇)など一行30余人を引きつれ、蝦夷地の土地利用の状態や民情の視察、それに新道開削の検分を兼ねて箱館を発った。

 長万部から寿都への黒松内新道はヤチ気の多い泥道が続く。しかし黒松内から寿都寄りは道路もよく土地も肥沃で、道筋には和人の入植が増えはじめている、と玉虫義はその著『入北記』に書いた。

 5月18日、蝦夷地西海岸の大難所雷電峠を越える。胸つき八丁どころか鼻つき坂とも言うべき険しい道を一坂ごとに休み、また休み、それで「鎮台その他の面々満身の汗、疲労を極む」というほどだった。その夜は岩内の運上屋に1泊。

 5月19日、早発ちして稲穂峠越えに向かう。途中、御手作場(共和町役場付近)の開墾場を見て「地味至って宜しく植付した稲苗も勢気大いに盛んなり、其外畑物も宜し」と感心。

 堀株川を船で渡り、島付内[シュマツケナイ](国富)の笹小屋で休憩昼食。ついで8km余の山坂の多い稲穂峠を越えて無事ルベシベの通行屋に辿りついた。

 「笹小屋(通行屋)という併し今春新たに建てたる家にて至極美麗を極む」と『入北記』に書いた。一行が箱館を出て8日目、松浦武四郎が先に通過してから1カ月後にあたるが、通行屋は立派な和風建築に建てかえられていた。『入北記』には岩内から峠への登り道を「雷電峠のことを思えば楽なもの」とあるが、稲穂峠の頂上からルベシベ間のけわしい下り坂については何もふれていない。

 先にも書いたが、筆者ら4名は残雪を踏んでこの急坂を下ってみたのであった。

 掘奉行は駕籠[かご]か馬、玉虫や島は馬か徒歩であったらしいが、当時の馬はドサンコで力も強く、どんなけわしい山坂でも藁[わら]ぐつもなしに自由に駆け廻るほど。とは言え果して乗馬のまま下れたであろうか。さらに奉行の駕籠かきに至っては言語に絶する苦労であったろうし、乗っている奉行とて並大抵ではなかったかと思われる。

 一行はその夜、今流で言えば新築間もない山のホテルで1泊した。しかし夜になって連れてきた馬を熊にねらわれている気配に、おちおち眠ることができず「鎮台より空砲十二、三発放ち、その夜は無事なり」と『入北記』に書いている。

 翌5月20日、山道を川を渡ったり、馬の通れないような坂道を上り下りして七曲りをすぎ、然別で昼食。それから大川沿いに余市へ向かった。

 安政3年の秋、開通したヨイチ越え山道は、安政5年8月、余市町民の強い要望もあって、路線は然別で分岐し砥の川から桐谷峠を越えて下山道に下り、沢町を通って余市運上屋に至る新道に切り替えられた。

 公用の役人ばかりでなく、一般旅人の往来もふえるにつれて、道路筋には1里ごとに道標が立てられ御休所や木賃宿もできた。それに宿場から次の宿場へ旅人や荷物を継ぎ立てる人や馬も整備されるようになった。

 余市運上屋に保存されていた『文久三年、ヨイチ越山道人馬継立仕法』によると、当時、継立の人馬は岩内と余市で合わせて人足[にんそく](人夫)55人、馬は50疋[ぴき]用意され、その継立の詰所[つめしょ]は岩内、ルベシベ、余市の3カ所に設置されたが、うち岩内(国富)と余市(然別)にはそれぞれ人足17人と馬16疋配置し、ルベシベ(大江3丁目)には人足21人と馬18疋が通行屋の前庭に詰めていて、稲穂峠越えに備えられていた。

 時代は変わった。明治2年5月、箱館戦争が集結し、同年7月には開拓使が設置されて北海道の開拓と経営が行われるようになり、それに伴って公用の役人やその他の人びとなども相次いで往来するようになった。

 明治2年11月、札幌本府建設を急ぐ開拓使判官島義勇一行40名を皮切りに、明治3年3月には米沢藩氏山田民弥ら主従4人が後志・石狩の風俗や地理調査に、同年7月、東本願寺大谷光瑩[こうえい]一行が新道切り開きや、移民奨励などの名目で、いずれも余市山道を経て札幌入りしている。

 外国人では早くも明治2年、英国人ブラキストン(軍人・動物学者、ブラキストン線で著名)が来道して各地を調査し『えぞ地の旅』を書き、ついで明治6年の夏、北海道開拓使顧問の米国人ホラシ・ケプロンも乗馬で稲穂峠を越え、函館に向かった。その道中筋の見聞を『エゾと江戸』に書き残していて、いずれも仁木町の郷土史の資料として大切なものが多い。

 中でも島義勇は、ルベシベの通行屋に前後3度宿泊している。彼の『北海道紀行草稿』には、宿余市山中と題する漢詩が2首あるが、その1首、

 旅館深く埋もれ、雪中にあり
 宛[さなが]ら仙洞一途に通ずるが如し
 数声驚破す 行人の夢
 犬 屋頭を走り暁風に吠ゆ

と、明治3年3月、札幌建府の業なかばにして帰京の途次、春なお浅いルベシベの宿での作である。

 今、通行屋跡はルベシベの野に影をひそめている。とは言えこの地の優れた交通地理的位置は、昔も今も変わりはない。現にそのきざしが見えてきた。

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p178-183: 69ルベシベの通行屋 --- 初出: 仁木町広報1988(S63).6,7,8

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