ところが最近、あの小判型をしたトタン製の湯タンポが金物屋の店先などに並べられている姿がチラホラ目についてきた。まさか湯タンポまで復古調にのったわけでもあるまいが・・・など考えるにつけ、昔の湯タンポが思い出される。
太平洋戦争中は、あらゆる金属類が軍事に優先され、湯タンポと言えどもその例外ではなく、ブリキやトタン製は禁じられ、その代用品として陶器製の小判型や枕型をした湯タンポが現れた。
これは、トタン製などに比べると思いばかりか、こわれ易いとか、湯口がゆるんで漏れ易いというような欠点はあったが、程よい温かさと肌ざわりなど、金属製のものより使い心地がよかったようである。
とは言え、陶製の湯タンポにヒビ割れでもできたら万事休すで、その修理方法がなかった。そんな時には1升ビンなどに湯をつめて代わりにした。ところがこれがまたなかなかいける。ビンを温めておいて熱湯を入れ、厚地の布にくるんで使うと大丈夫。朝までもつばかりか起床後の洗面用の湯に事欠かない。
そう言えばトタンなど無かった昔の湯タンポは、普通陶器製だったという。しかし、それも入植して間もない頃の開拓農民などにとっては高嶺の花であった。
当時の住居は、草ぶきの掘立て小屋式のものが多く、冬は戸口や窓から入る隙間風で寒さばかりか雪まで吹き込み、布団の上は真っ白に、その襟元は寝息でカチカチに凍りつくことも珍しくなかったという。
その頃の暖房は、いろりを囲んで焚火にあたり、夜は平たくて手ごろな河原石を炭火で熱し、ボロ布に包んで寝床に入れた。この簡単な焼石法は案外好評で、大正時代まで使っていた人があったのを筆者も覚えている。
明治の中頃になると、酢徳利や焼酎徳利が出回った。これは酢や焼酎を入れて本州からの海上輸送用の容器であった。いずれも陶器製の形は首が短いトックリ型で中身を使ったあとは、いろいろ液体を入れて再利用したが、焼酎徳利はその大きさや形も程よいので酒や醤油入れにしたり、水筒や湯タンポ代わりにもした。
1升ビンがまだ普及しない明治末期から大正時代にかけての仁木では、通称貧乏徳利が幅を効かした。当時村内の主な雑貨店などでは、自家の屋号や店名を筆太に入れた徳利を通帳[かよい]と共に得意先へ配り、酒や醤油などの計り売り用に提供した。これが貧乏徳利。首が太短く胴が長めで横にすれば枕形。言うまでもない、これも当時湯タンポ代わりをした。
我々に最も親しまれたトタン製の小判型湯タンポは、大正時代から昭和初期に広く普及した。これが出はじめた頃の新聞広告には図入りで「新案特許湯タンポ」と大いに宣伝されたという。それから70余年、今またその姿が店頭にチラホラ・・・。今昔の感ひとしお。
酒徳利(仁木町教育委員会蔵) |
出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p122-123: 50湯タンポ --- 初出: 仁木町広報1986(S61).2
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