旧ルベシベ鉱山探訪

 仁木町大江3丁目、ルベシベ川の上流に古くから金や銀、銅、亜鉛それに硫化鉄鉱などが採れるルベシベ鉱山があった。閉山されてからすでに40年余りも経っているので人々の記憶からも次第に遠ざかりつつある。

 筆者もかねてから探訪したいと考えていた一人であったが、ついにその機がやってきた。かつてルベシベ鉱山に勤務し、その筋の経験深い地元の佐藤重雄氏、近年まで営林署でこの付近の地区を担当されていた幸坂伝一氏、さらにこの地区第一の長老であり、物知りで健脚の聞こえ高い寒河江四郎氏らに案内を乞い、筆者も加わって一行4人、去る4月9日、おりからの曇り空を懸念しながらルベシベ川沿いの鉱山跡への道をたどる。

 鉄道踏切を渡り、国道5号線を横切って、うす暗い雑木林へはいる。残雪を踏みしめながら、だらだら坂をしばらく登ると、道のわきに段差のある平坦地に出た。当時この付近の道の両側にはルベシベ鉱山の社宅や雑貨店などが立ち並んでおり、どの家にも自家用の井戸が掘られていた。ルベシベ川の水質は酸味が強く飲用に不適だったという。今は川底の小石など鉄サビ色に染まったところもあるが、酸味は消え失せていて飲用にもできるという。

 ここで佐藤氏から手作りの略地図など渡され、ルベシベ鉱山の由来など大づかみに聞く。

 この鉱山は明治17年ころ、伊藤清之助が発見、以後発掘に着手したが、三井、田中鉱業に売却する。そこで大正2年まで採掘され、ついで昭和11年、日本鉱業が買い取り、昭和13年まで稲穂鉱山として再発掘した。更には昭和25年から2年間採鉱した。

 鉱石は硫化鉄鉱、鉛、亜鉛、銅、一部金銀など産出し、然別の大江鉱山の鉱石と共に、然別駅から本州方面へ貨車輸送された。なおルベシベの鉄道踏切付近で臨時停車した貨車へ待ち積みもされていた、と。

 いつの間にやら西の空から雲が切れて、ルベシベの谷底から行く手の山なみがくっきりと浮かんできた。浅瀬をこぎ渡って右岸へ出る。つま先あがりの小坂をしばらく登る。林相が次第に変わってきた。白樺の林が遠のいてイタヤやナラ、シナノキらしきも見受けられ、左手の山すそから尾根づたいは、昔から熊の通り道であったらしく、アイヌ時代に彼らは獲物を求めてこの獣道を追った。けものみちはまた狩人らの足で次第に踏まれて人間の踏み分け路にかわっていくことが多い。

 今の国道5号線が走る稲穂峠も、もとはと言えば獣道に他ならなかった。それにルベシベという地名自体が、沢を登り山の鞍部[あんぶ]を越えて向こう側の沢を下る、すなわち「峠道の沢」の意でアイヌ時代の交通路であった。我々一行は今、その沢道を辿りつつある。

 つま先あがりの道を登りきると、やがてちょっとした広場に出た。そこには社宅や鉱山事務所、それに飯場などが立ち並び、近くの山ぎわには鉱山神社があったと言う。今は雪に埋もれてその跡かたさえ見当たらないが、祠[ほこら]があったとおぼしい所には枯れかかった神木が1本、白骨のように佇んでいていかにもわびしい。

 やや登る。自然石をたたんだ頑丈な石垣が雪から顔を出している。洗鉱場の跡で、高さ約3m、長さ15m前後もあろうか、その近くにダイナマイトなどを保管した火薬庫も建っていたと言う。

 谷底は次第に狭まる。渓流のゴロッタ石を右に左にさけながら一歩また一歩、突然行く手に黒い大穴がこちらを向いて口をあけている。それは零米(ゼロメートル)坑の坑口だと言う。腰をかがめて中を覗くと、天井は落ち、壁は崩れて赤茶色のヘドロが床底に漂っている。やせ細った坑道は無気味にうす暗いが、朽ち果てた支柱の坑木が2,3本ずつ立っていて僅かに往時が偲ばれる。
零メートル鉱の坑口跡

 坑道は、零米坑の他に、15米坑、40米坑、70米坑、120米坑などがほぼ東西の方向に並び、そのすぐ隣に第一亜鉛坑、第二亜鉛坑があって、この辺一帯は旧ルベシベ鉱山の中心であっというが、いずれも雪に埋もれて見ることができない。

 なお70米坑口の前からは軽便索道が洗鉱場へ向かって架かり、洗鉱を終えた鉱石は一時貯蔵され、冬季間馬ソリで然別鉱山へ運んだが、鉄道開通後はルベシベ踏切近くに設けられた鉱石列車積込場から運び出されたと言う。

 帰りに零米坑の前で岩石のかけらを2,3個拾った。後で虫めがねで調べてみたら水晶や黄鉄鉱の細かい粒が点々とまじっている石英系の鉱石であった。

 ここは太古の海であった。当時の海底では火山が盛んに活動し、高温なマグマが次々に吹き上げられたが、それが岩石の割れ目にはいり込んで沈殿したり、交代作用などで金や銀、銅や鉄、鉛、亜鉛などの重要な鉱床になった。つまりマグマが固まる時、次第に熱を失い、ある温度以下になった時を熱水時代というが、ルベシベ鉱山は隣の然別や轟鉱山などと共にこの時期に生成した鉱床で、千数百万年以前の激しい海底火山の落とし子とでも言えよう。

 明治38年1月、稲穂トンネルの北口に銀山駅が誕生した。それはルベシベ鉱山に多く産出した銀鉱にあやかったのもであり、現在の仁木町銀山地区も近年になって、旧来の馬群別を改めて銀山と命名した。いずれもルベシベ鉱山からの贈りものであると言えよう。

向かって左から、佐藤重雄、寒河江四郎、筆者

出典:図書「ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1991(H3).3, p222-225: 81旧ルベシベ鉱山探訪 --- 初出: 仁木町広報1990(H2).5,6

0 件のコメント :

コメントを投稿