然別にあった人馬継立所

 この絵は安政4年(1857)の夏、幕府の命をうけた絵師目賀田帯刀[めがたたてわき]の写生図で、満々と流れる余市川へ然別川が落ち合う丸山の北麓(共進)あたりを描いている。

 安政4年といえば、余市、岩内間を結ぶ余市越えの山道が開通したばかり、折から然別川の大橋を渡った乗馬姿の3人づれと、それにやや遅れて、大小を腰にした人物とその従者であろうか、振分け荷を肩にして後についている。いずれもルベシベ(大江3丁目)の宿場へ向けて急いでいるように見える。

 当時、然別川の大橋付近には御休み所や番屋があり、また人馬継立所の詰所もあった。

 文久3年(1863)に記した旧余市運上屋(林家)に伝わる古文書『ヨイチ越山道継立仕法』によると、この山道筋には旅人の利便を図るため人馬の継立所が要所要所に設けられていた。岩内と余市で用意した馬が50頭と人足(人夫)55人のうち、然別では馬16頭、人足7人が備えられていて旅人らの求めに応じ、丸山の険路である石坂を越え、七曲りの難所を辿ってルベシベの宿場(通行家)へ人や荷物を運搬した。

 朝、余市を出発すると昼食は然別の休み所、夜はルベシベで1泊し、翌日は稲穂峠を越えてシマツケナイ(国富)で昼食をとり、ついで岩内の宿場へむかった。

 余市・岩内間の行程50km、当時は1泊2日の旅であった。

北海道歴検図:安政4年・目賀田帯刀筆(北海道大学付属北方資料室蔵)

出典:図書「続・ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1997(H9).12, p67: 22然別にあった人馬継立所 --- 初出: 仁木町広報1993(H5).9

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