旅路で想う

 去る9月のはじめ、町史編集の取材旅行中、山形県天童市に立ち寄り天童民俗館付属の佐藤千夜子の生家を訪れた。

 苔むした茅ぶきの重厚な二階家、中へはいるとどの部屋にも千夜子の遺品や関係資料でいっぱい、大広間には新旧各種の蓄音機やレコード盤、楽器類、舞台衣裳をはじめ彼女の身廻り品や音楽関係の資料などが展示され、部屋の奥からは彼女の歌がレコードにのって次から次へと流れて来て、愛好者らしい人が椅子にもたれて耳を傾けている。

 2階の一室には大きな長持ちや茶だんす、鏡台、衣類など彼女の遺品が無雑作に並べてあったが、中でも筆者の目を引いたのは、古びた長持ちの上に何気なくのせてあったコリ柳で編んだバスケットと、絹張りのパラソルが2本添えてあったことである。それらは昭和5,6年ころの世情を思いおこせるに充分であった。

 その夜、静かな温泉宿で横になったが久しぶりに聞いた「東京行進曲」が耳に残り、コリ柳のバスケットが目の底から消えない。

 昭和4年の秋、アメリカに端を発した史上最大の恐慌は、不況下の日本に追いうちをかけたから堪らない、深刻化してくる就職難。不安と混迷が続く不景気、高まりつつある不況を背景に内外ただならぬ情勢が日本を包んでいった。

 一般大衆は、この社会の動きからくる身辺の不安感から、毎日の生活に疲れ、刹那的な刺激を求めた。

  昔恋しい銀座の柳
   仇な年増を誰か知る
  ジャズで踊って
   リキュールで更けて
  明けりゃダンサーの涙雨

 と、歌う佐藤千夜子のこの歌は、失業と不景気風の吹きすさぶ大東京の街中で口ずさまれたが、たちまち全国の隅ずみまで流行した。

 農林では、農産物の価格が大暴落、米価はほぼ半値、マユは3分の1になった。昭和6年には、東北地方や北海道を冷害が襲い、生活困窮者が続出した。学校に弁当を持って行けない欠食児童や借金のかたに娘を売る農家が増加したが、当時の仁木村も、その例外ではなかった。

 筆者も11月のはじめ、降り積もった雪を払いのけながら稲刈りし、収穫したのは青い屑米ばかりであったにがい経験を忘れられない。欠食児童もあったし、親のために苦界へ身を沈めた知り合いの娘も1人や2人ではなかった。

 そんな世相であったが、「東京行進曲」や「酒は涙か溜息か」などは大はやり、若い娘らは派手好みの和服に絹の日傘、化粧品やハンカチを収めたコリ柳のバスケットを提げて歩くのが流行の先端をいくスタイルであった。

明治・大正からのコリ柳製品

出典:図書「続・ふるさと再発見」久保武夫 著, 仁木町教育委員会発行1997(H9).12, p68-69: 23旅路で想う --- 初出: 仁木町広報1993(H5).10

0 件のコメント :

コメントを投稿